月刊マーチャンダイジングは 創刊25年目に突入します

定期購読500部から
月刊MDは始まった

 2022年で月刊MDは創刊25年目の年に突入する。1997年に脱サラして個人で会社を設立し、翌1998年に月刊MDの創刊号を発行した。今月号で丸24年間、1号も欠かすことなく定期刊行物を出し続けたことは、奇跡的な出来事だったと自分でも思う。
 月刊誌の発行前に、親しい小売業の経営者に「月刊誌を創刊しようと思う」と相談したところ、「業界紙・誌はすでにたくさんある。日野君が新しく雑誌を創刊する意義がわからない」と言われた。最初はムッとしたが、考えてみればその通りである。さまざまな情報はすでにあふれかえっている中で新雑誌を出す意味は確かにない。
 「ちょっと新雑誌の発行は無理かもしれないなぁ」と思いながらも、見本誌をつくって1998年創刊予定の月刊MDの定期購読者を募集した。無謀にも、前金でもらう年間購読料を製作費にあてるという自転車操業での出発を考えていたので、年間購読者が500人以上集まれば雑誌を創刊しよう。もし集まらなければ返金して創刊をやめようと思っていた。
 募集を開始したが、無名の人間が雑誌の定期購読者(前金)を募集しても、ほとんど読者は集まらなかった。しかし、1997年の年末までに奇跡的に年間購読者が500人を超えた。
 とはいえ、500人の中の250人は、カワチ薬品の社員の人達であった。月刊MDが創刊できたのは、カワチ薬品さんのおかげだったといっていい。
 いずれにしても、ほとんど誰も知らない雑誌をスタートしたので、いくつか雑誌の編集方針を決めた。第1は、業界紙・誌が集まる場所には極力近よらない、業界情報のようなニュースは一切書かないというルールだった。業界の集まりにはほとんど参加せず、「俺は無人の荒野に一人でテントを張るのだ」と豪語していた。今思えば若かったなぁ。
 また、無名雑誌なのでなかなか取材を受けてもらえないので、売場の棚割を勝手に調査したり、商品構成グラフを作成したり、客動線調査で売場レイアウトの原則をまとめる「調査報道」を中心にした。調査報道といえばはカッコいいが、単に取材を受けてもらえなかっただけのことである。
 すべての新聞の一面が「山一証券経営破綻」の記事で埋め尽くされた日に、一面に「ブッチャー流血」という記事を載せる「東スポ」のような編集方針だったといっていい。
 一次情報のニュースは業界紙・誌が記事にするので、足で稼いだ調査報道で蓄積した情報を体系化して、理論化することをとにかく繰り返した。
 亡くなったペガサスクラブの渥美俊一先生から、「口八丁で意見を述べるコンサルタントはたくさんいるが、日野君は足で稼いだ事実(ファクト)に基づいて意見を発信している。そういう仕事の仕方をしている人はいないよ」と褒められたことがあり、随分と自信になったことを覚えている。
 そうこうしているうちに、1997年頃から2000年の初頭にかけて急成長を開始したドラッグストア(DgS)の経営者の人達が、月刊MDを気に入って応援してくれて、少しずつ発行部数が増えるようになった。

日米の小売業の歴史は
栄枯盛衰の歴史である

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